富士講

長谷川角行について

富士講の開祖は長谷川角行(1541~1646)冨士の人穴(富士宮市)や北口本宮参道の立行石等で荒行を重ねて, 宗教的覚醒をえて祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済したといいます。

画像1

富士講

はげしいふん火活動が収まってくると、まず富士山を目指したのは山にこもってはげしい修行をする「山状」と「修験者」たちです。時を経て、富士山に登拝する一ぱんの「道者」も増えはじめます。 この流れに火がつくのが江戸時代です。しょ民による富士山信こう「冨士講」の隆盛です。富士山はより身近な存在として大衆にひらかれ「講」を組むことでだれもが富士山を目指せるようになり ました。麓の町には、「富士みち」を旅してくる各講の道者で大変にぎわいました。

画像3

富士山信仰

古代より崇高な山であった富士山は,神体山「禁足地」であり、麓にて祭しが行われ、遠くにその姿のみえる場所からも拝まれてきました。時代が進み、仏教の伝来を経て、また修験道などのえいきょうを強く受け、修行を通して自然的な験力を得ることを目的に室町時代には庶民の間でも信こう登山がさかんになっていきました。

富士講

江戸時代中期、富士山を信仰する。農民や商人らで組織された長谷川角行が現在の静岡県富士宮市周辺修行して開いたとされ、修行の場「人穴富士講遺跡」 は富士山と共に世界文化遺産に登録された。白装束にすげ笠を身にまとい、金剛杖を携えるのが正装とされる。

画像2

女人禁制

修験道の伝統として、れい山などの女性の入山を禁止していました。 富士山も1872年「明治5年」の太政宮布告により禁が解かれるまで、女人禁制でした。 ところが、禁が解かれる前に登拝した女性がいました。 富士講の信者高山たつです。男女平等の思想を持った食行身禄の意志を受けついだ 小谷三志の尽力により、登頂を果たしました。そのとき、たつは男装だったと言います。